三宅 blog

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2005年 03月 16日 ( 1 )


2005年 03月 16日

ワイルドサイドを歩け

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Take a Walk on the Wild Side . . .

ルーリードが、アンディ・ウオーホルのファクトリー出身だってのは、皆さん御存知だと思う。 ヴェルヴェットアンダーグラウンドを脱退したリードが、ソロになってニ作目のアルバム<<トランスフォーマ−>>を発表したのが、1972年。 リ−ドを敬愛するイギリスのグラムロッカー ジギー・スターダスト ことデビッド・ボウイとその相棒ミック・ロンソンがプロデュ−スを申し出て、このロック史上最凶の傑作アルバムが出来上がった。

30年以上前の世界で、堂々と二つの性別を股にかけて生きるのはたくさんの困難を伴った。現代では想像もつかない。
臆面もなくヘロインについて唄い、肯定するでもなく否定するでもなく、ニューヨークの裏道に展開する人間模様を傍観的に、文学的に描写するリードのリリックは、今だにぞっとするほどリアルで美しい。(とはいえ、30年分の風化は当然、ある。)

この時代のロックが、何故ロックだったかという事に着目した時に、ひとつの定義がうまれる。 「誰も言わない、言っちゃいけない」事を唄ったのだ。 それが、ロックだ。 嫌われるのを恐れて自らを縛ったら、ロックとしてはその時点でアウトだ。
例えば、ゲイカルチャーが今のように公然としたものになるに至るまでの激しい差別との闘いを、まさにリード達の世代が起こしたのだ。 例えば、の話し。それ以外にも、彼等が「自由」を事後報告的に体現してみせることで主張し、それが今や当たり前の事になっている例は枚挙に暇がない。 勇気に満ちた行動、かもしくはある種の馬鹿である。偉大なる愚者。そしてそこに愚者の存在理由をみとったら、たいがいの人はロックにハマる。

マリファナがカウンターカルチャーのシンボルマークになったのは何故か。
「やっちゃ駄目」なものだったからだ。

ちなみに、リードはヒッピーではない。
むしろその動き以前からの、初期衝動であり、そして彼は何にも属さない。

ニューヨークパンクは、明らかに ヴェルヴェットアンダーグラウンドが最初の波である。 カンのようなジャーマンエクスペリメンタル音楽も、それ以前にジョンケイルやリードの存在を認めている。 ファーストフ−ドみたいな似非ロックばかり流行る日本のシーンにどっぷりの人には、なんのことやらさっぱりだろう。 興味がある人は、ちょいと掘ってみたらいい。 縁があれば、新大陸を発見することができるだろう。 金よりも銀よりも素晴らしいものを手にする事ができるはずだ。


リードのもっとも有名な曲、<<ワイルドサイドを歩け>>は、ウオーホルのファクトリーを徘徊するドラッグクイーンやピンプたちを描いている。彼はそこに何の答えも提示しない。ただ描写し、そして繰り返す。「ワイルドサイドを歩け」。つまり、裏道を歩こうぜ、って。
社会、大人が強制するフォーマットになんの興味も共感も見出せない。本当の幸福を傷だらけで模索する生きざま。

今、日本社会に必要なパフォーマンスてこれだろうと思う。
みんな臆病になってしまっている。 若者までが、有効な自己のスタンスをみつけられずに、つまらない屁理屈と卑屈の海にどっぷり沈んでいる。 たまにあげる反抗の声は、あまりに情緒的過ぎてロジカルな裏付けがあまりにない。 本能を讃美するのは、理性で自分をさんざっぱら追い込んでからのネクストステップだ。

ビート詩人、アレン・ギンズバーグが言った「書を捨てよ 街に出よう」。
これを勘違いしてる奴が多い。始めから書を手にしない者への言葉ではない。

ノベルティミュージックとしてのルーリード。それが、どうしようもなく本能的なサウンドにのっかって、ロックのひとつの元素になった。
ロックを勘違いしてる奴が多い。感じる音楽だと。
それは、心と思考がふたつでひとつだっていう事に気付いてないからだ。

ロックが、考える馬鹿のアートフォームだと、僕は断言する。




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by dogggystyle | 2005-03-16 05:56